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昭和の柳ヶ瀬・復興から繁栄へ
織田信長
岐阜に入城した信長公は、
戦乱で荒廃した町を復興させるために
「楽市楽座」の政策を打ち出し、
経済の活性化を図りました。
これは特定の商人しか
商売が許されなかった時代に、
誰もが自由に商売ができるという
画期的なシステムでした。
また、「兵農分離」により、
専業の武士団を組織して
兵士と土地を切り離すことで、
経済力、武力、生産力をそれぞれ向上させ、
人が集まる城下町を作り上げました。
岐阜は、織田信長により
商業が発展しました。
昭和20年
©
「お話・岐阜の歴史」サークル
昭和20年7月9日の空襲で
半世紀にわたって
築き上げられた柳ヶ瀬の街は
木造家屋がほとんどであったため
跡かたもなく焼失し、
コンクリートの建物の外壁だけが残る
瓦礫の街と化しました。
そして30年代に入ると
高度成長の時代に突入していきます。
柳ヶ瀬も例外でなく
経済復調の恩恵をうけました。
戦後の柳ケ瀬の復興を支えたのは娯楽でした。
空襲で焼失した建物を
バラック掛けでいち早く再建し、
映画を上映しました。
昭和30年代の柳ヶ瀬と映画館
© 「お話・岐阜の歴史」サークル
その後柳ヶ瀬は
全国的に有数な繁華街として発展していきます。
昭和41年に美川憲一が歌い
大ヒットした「柳ケ瀬ブルース」
に歌われて全国的に名を広め
時には肩がすれ合うような混雑ぶりで
岐阜市の中心商店街・歓楽街として栄え
小売店や飲食店はもちろん
百貨店などの大型店舗も軒を連ねていました
名古屋からも遊びに来る人も多く
「柳ブラ」(柳ヶ瀬をブラブラする)
と言う言葉も生まれたほどでした
©
「お話・岐阜の歴史」サークル
にぎわう人々
©
「お話・岐阜の歴史」サークル
昭和20年代後半ごろ出現したテレビは
30年代中頃からその普及速度を速め
実際に各家庭にテレビが普及したのは
「昭和39年の東京オリンピック」でした。
その間カラー放送も開始され
ますます「茶の間の必需品」となり
生活の中心になりました。
「一軒に一台のカラーテレビ」の存在は
映画事業に大きな影響を与え、
映画を見るために
柳ヶ瀬に足を運ぶ人の数も
大きく減少しました。
映画と共に、
ショッピングなど楽しみを求めて
盛り場、柳ヶ瀬に足を運ぶ市民も
少なくなりました。
平成時代に突入した頃より、
車社会の進展による
大型ショッピングセンターの郊外進出や
ネット通販の普及による
買い物客の減少などの影響により
集客力を失い
急速に衰退の道をたどりました。
その後さらに、
追い討ちをかけるように
老舗百貨店の撤退や
大型商業施設の閉店などが相次ぎ
一時期柳ケ瀬界隈から
灯が消えたような寂しい状態となりました。